芝居を共にした、かけがえのない人を、先週、亡くしました。
まだ、50前後だったと思います。
僕がタイを旅していたとき、現地で社会貢献活動をする方達と行動を共にした事があります。
その時、何の目的もなく、ただ、この場にいるだけの自分が情けなく思いました。自分もこの国で何かできることをしたい。
あちこち情報を集めて見つけたのが、首都バンコクの日本人劇団でした。
彼女はそこの代表だったんです。
いくつか芝居を公演してきたけど、実はミュージカルがやりたいの。でも、曲を作れる人がいなくてね・・・という一言に、バンドでオリジナル曲を歌っていた僕は「曲なら作れますよ!」と勢いで言った。
そこから、劇団はミュージカル劇団へと変わっていきました。
本当は、バンドの曲こそ作ってきたけど、ミュージカルの曲は作った事がなかった。
多分、できると思う、そのくらいだったけど、勢いで言った「作れますよ!」。
もちろん、一生懸命、「森は生きている」という曲の他、いくつかの曲を作って上演していただいた。思いの外、良い曲を作る事ができたと思っています。
この曲を聴いた方から、福井県鯖江市の祭りで歌って欲しいと依頼され、大舞台で歌ってきたこともある。
バンドより音楽劇の作曲のほうが自分には合っている事を知ったのは、この出会いがあったから。芝居と音楽、両方を続けてきた自分には音楽劇の作曲が自分に合っているというのは、当然だったのかもしれない。
ただ、そんな気付きを得る事ができたのは、彼女が快く僕を迎え入れてくれたからに他なりません。
振り返れば、音楽人生で僕に転機をもたらせたのはこの彼女との出会いだった。
亡くなって、更に、かけがえのない人だった・・・もっと、一緒にやれることがあった・・・
後悔先に立たず・・・そう思って止みません。
ミュージカルの上演後、音楽劇やミュージカルの曲が専門になりました。
彼女が僕の作った曲をすばらしいと褒めてくれたから、僕のその道を疑わずに選べたんです。
劇団は大きく成長して、色々な人が関わり、僕以外にもすばらしい曲を作る人が入ったにも関わらず、今でも主題歌だけは僕に頼んできてくれます。
DVDやプログラムのクレジットには必ず、音楽の一番最初のところに僕の名前が載る。
今回は主題歌だけだから、下の方でいいですからね!と言っても、上演後に国際郵便で送られてくるプログラムには一番上に載っていました。
2007年、彼女が一時的に日本に帰国していたとき、僕は厚木市の演劇連盟あつぎテアトロの公演稽古の真っ最中でした。
全音楽を作り、原作を大幅に作り直してシナリオを書いた「空から落ちてきた奇跡2007」
彼女は、なんども稽古に通ってくれて、参加してくれている子供たちに丁寧に接してくれた。制作をしていた代表を務める学生が自分の息子さんと同い年だと知ると、とても愛着を持って接していました。
「うちの息子と同い年なんだもん」と何度も何度も言いながら。
子供たちと離れて暮らしていた時期だったので、すこし寂しかったのだと思います。
厚木の子供たちに、みんながんばれば、タイでも公演できるよ!って子供たちに囲まれながら楽しそうに話していました。子供たちも彼女の言葉に目をきらきら輝かせていました。
公演が終わった後、また、一緒にやりましょう!と美味しいお酒を飲みました。
その後も、日本に帰国されていることが何度かあり、そのたびに、「今度、一緒になにかやりましょう」って言ってた。
今度、今度、今度って・・・
先週、彼女の訃報を聞いて、愕然としました。かけがえのない人に社交辞令のように「今度」って言ってきてしまった。
その「今度」は二度とやってこない。
今度なんて言っていないで、やれば良かった。
かけがえのない人を亡くして初めて気付く、もう、何もできなくなってしまったこと。
去年から流行語として「今でしょ,今でしょ」と僕の子供たちも使っている。
流行語でも何でもなく、本当に大事なのは、「今」なんだと思う。
たしかに、彼女とはもう、一緒に芝居をやる事はできなくなってしまったけど、それでも、残された人たちには、「今」があるわけで、その「今」は、絶対、後悔しないように、生きなければいけないんだ。
ツルギ君の曲は、他の人のとは全然ちがう
とても嬉しかった言葉。
ありがとう、何気ないように見える出会いでしたけど、僕にとってはかけがえのない出会いでした。
その出会いによって開かれた扉の先に、まだ、道はつながっています。
今、歩まなければ、今、大切な人と会わなければ、今、困っている誰かを助けなければ、今、やらなければ
この後悔の上に、また、教えられた事ができました。
励まされ、教えられました。
ご冥福をお祈りいたします。
コメント