役者の世界は演者が客のローテーション
僕は元役者。もう24年くらい前になるけど、歌舞伎座の舞台に立っていました。
義経千本桜。
役者道を進むはずが、高校生にして役者業が忙しくなり、学業を怠るなと父から役者業を取り上げられた。あれから父と会話をしなかった時間は11年間。
夢、希望、目標を取り上げられ、実績をリセットさせられた怒りは収まらなかったのを今でも覚えています。
成人して、「教育熱心」な親から開放され家を飛び出し再び、役者の道に歩み出すと、実績がリセットされた自分の立ち位置は下の下。
チケットノルマ文化
以前のようにお給料のようなものはなく、ノルマと言って舞台に出演するなら自分でチケットを20枚とか30枚購入しなければならない。
その額は7万くらいから多い時は20万円程度する。
誰に売るのか?役者文化は根が深く。お互い様という社会が出来上がっていて、「この前行ってあげたから、次は来てくれよ」的な暗黙の了解ルールがある。
演者自身が客をローテーションしているのだ。
小劇場に行くと、おそらく客の9割が役者。
小さな小さな社会。
僕自身、そこから抜け出したくて、アイディアをねり、時にケーブルテレビの企画で舞台を作ってショートコントならぬショート演劇を披露したこともあった。
特に変化があったわけじゃないけど、なにか違う切り口で演劇を実社会にむりやりねじ込もうとしていました。
でも、それもなかなかうまくいかなかった。
演劇もコアな人が多いのでオタクといえばオタクなのかもしれないけど、グッズやツールが存在しない世界だからか経済も動かせない。
音楽であれば楽器があるから経済が動く。演劇にはそれがない。
役者の集客は演劇関係者へのコピペ一斉送信。
未だに、コピペのご案内がメールで一斉送信されてきて、変わらない社会にどうしたものか・・・と考えこんでしまう。
ちなみに、僕は演劇人なので気持ちはわかるし、仲間の勇姿は観たいので喜んでメールを受け取るし、やめて欲しいなんて思っていない!
でも、多分、みんな、そんなところから抜け出したいはず。
とは言え、正直なところ、「観たい!」「行きたい!」という気持ちには、どうしてもなれず、「ぼちぼち行ってあげなければ…」的なモチベーションのお客さんが僕も含めて多く、行くことに意義があるような社会。
僕が思う。こうだったら行くのにな。
- 近い
- 安い
- 短い
遠い
面倒なのが、僕が郊外に住んでいることもあり、誘われる芝居すべて遠い。
もっと、身近にあれば喜んでいく。
高い
そして、小劇場だと3,000円から4,000円。
そのくせ、パイプ椅子。興行側からすればこれで満席でも赤字なのはわかるけど、市場原理として心理的価格設定というものを加味すれば、やや割高感がある。
劇場側の場所だけ貸していればそれでいいという考え方。値段設定にも問題ありか?
長い
そして、長い。
自分のレベルを見怠る自覚症状がない演劇人が多いので、自信満々に長く見せてくる。
発展途上と自覚して「自分たちのレベルであれば2時間は長すぎる」など自覚症状がほしい。本当に面白い演劇は3時間でもあっという間。
2時間、パイプ椅子はきつい。
これを真逆にしてしまえばお客さんは来るのでは?と予想してみる。
たとえば、最寄りの駅でワンコインで30分くらいの芝居が観られるならちょっと行ってみようと思わないだろうか?芝居人でなくても、行こうかな?とちょっとでも思わないだろうか?
30分程度であれば、子連れでも、ある程度大きな子供であれば、大人向けの芝居でも我慢できる範囲。30分程度であれば簡易託児サービスも使える。
30分程度であれば、お年寄りでも仮にパイプ椅子であっても頑張れる。トイレも我慢できる。
30分程度のコンテンツであれば、1日4ステージできるだろうし。
30分程度のコンテンツであれば、1~4人程度の役者で充分。スペースも取らないから飲食店とコラボレーションもできると思う。
とにかく、僕は
- 遠い
- 高い
- 長い
だから進んで行きたくならないし、演劇人の僕自身がそうなのだから、一般の人も特にお年寄りは行きたがらない。そもそも演者自身が、自らの親や祖父母を呼ぼうとしないではないか?
近い、安い、短い演劇プロジェクトを起業家と演劇人で考えてみたいと思っています。
ラジオにしろ、演劇にしろ、僕はやや火が消えかかっても、粘り強く燃え続けて、それでも確実に残り続けていくものに執着してしまうようです。
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